長岡第五小校区の歴史
@ 土御門天皇金原陵・承明門院・地蔵院
A 寂照院
B 走田神社・走田古墳群
C 成願寺
D 楊谷寺(柳谷観音)
E 下海印寺遺跡
F 伊賀寺遺跡
G 長岡京市立埋蔵文化財調査センター
H 高橋城
I 西山田遺跡
@ 土御門天皇金原陵・承明院・地蔵院
金ヶ原の丘陵台地上にあり、樹木が茂り、遠く奥海印寺からもよく見
える。
天皇は父後鳥羽上皇の倒幕計画には関係はなかったが、自ら望んで土
佐(高知県)に移り、次いで阿波(徳島県)に移った。1231年
(寛喜3)37歳で崩御した。
死後火葬され、遺骨はこの地に埋葬された。その後、天皇の母(承明
院)によって法華堂が建立され、天皇の菩提を弔った。中世には、御堂
も御陵も荒廃していたが江戸時代1863年(文久3年)に修復された。
金ヶ原陵は、承久の乱から南北朝に至る、中世王朝が激動する波乱万
丈の政治ドラマの舞台だった。
金ヶ原陵は、金原寺にあった法華堂に遺骨を安置したのが始まりだと
いわれる。
その遺骨を納めたのが地蔵院である。その中にある本尊阿弥陀如来立
像は平安時代の作といわれているが、平成6年に修理され今の姿になっ
た。地蔵院は元は金原寺の別院だったといわれている。
A 寂照院・走田9号墳(海印寺古墳)
819年(弘仁10)権少僧都道雄が勅許をえて建立し、観音像を安
置して海印寺と号したのが起こりである。
創建当時は寺域も広く、今の奥海印寺、下海印寺は、当時の伽藍の旧
蹟地といわれ、子院十院を数える大寺であったが、応仁の乱で焼失し寂
照院のみが残った。入り口の仁王立像の体内から結縁交名が発見され、
その裏には日本最古の御成式目1344年(康永3)が見かっている。
御成式目は近世まで、武家政権の法典として高い評価をもって扱われて
おり、貴重な資料である(現在は府立山城郷土資料館に展示)。
また当寺は、日本における孟宗竹の発祥の地ともいわれ碑が建てられ
ている。
1568年(永禄11)9月に織田信長が足利義昭を擁して京都へ攻め
上ったとき、本陣としたのはこの寂照院であった。
B 走田神社
寂照院の背後にあり、天津児屋根命を祭神とし旧海印寺、長法寺村の
産土神である。走田とは、走り穂をつくる田をいい(初穂・早稲田)農
耕の守護神として祭られたと考えられている。
※ 走田古墳
この古墳は、平成7年に本堂の再建に伴う調査で発見された。7世紀
初めに造られた古墳で、直径12メートル、高さ3・5メートルの円墳
である。この石室の石棺は、加古川流域から運ばれた龍山石といわれて
おり、一般に公開されている。
※ 御谷神社
天児屋根命を祭神とする浄土谷の産土神で、五社明神とも言われてい
たが、明治になり、延喜式内の御谷神社と改められた。
※ 弥勒谷十三仏
柳谷と浄土谷の分岐点で、弥勒、大日、釈迦等の十三の石仏が安置さ
れている。仏の供養をすることによって現世安楽、極楽浄土を願う民間
信仰が盛で石仏が造立された(江戸時代の作風)。
C 乗願寺
柳谷観音に至る街道より、「弥勒谷十三仏」より、500メートル行くと浄土
谷の集落に入る。恵心僧都修禅の地と伝え、付近には寺院跡と思われる
釈迦堂・観音堂の字名が残っている。乗願寺は、浄土谷に現存する唯一
の寺で、「西山の大仏」(にしやまのおおぼとけ)と呼ばれる2、8メートルの
薬師如来像である。
※浄土谷の大日如来像
高さ57センチ、幅46センチ厚さ35センチの花崗岩製で、肉厚も丸彫りで
力強く、小像ながら逸品である。鎌倉後期頃の作であるが、風化も少なく保
存状態がよい。
D 楊谷寺(柳谷観音)
眼病平癒に霊験あらたかな観音菩薩を祀ることから、世に「柳谷観音」と呼
ばれ、古来から上下貴賤の信仰をあつめている。弘法大師、恵心僧都等も
入山、門前には、旅館が立ち、往時の景観は今も残している。
独鈷水は、弘法大師が、この水で親猿が盲目の子猿の目を洗っ
ていのを見て感動し、眼病平癒の霊水にしたと伝える。当寺の信
仰の根元となった。
柳谷観音は清水寺楊柳観音とともに、落語「景清」で有名である
(景清の落語は、
右写真をクリックください)。
E 下海印寺遺跡
乙訓地域で発見された最古の土器は縄文時代の押し型土器と呼ばれ、下
海印寺遺跡で発見されている。
F 伊賀寺遺跡
有舌尖頭器の発見(槍先に付けられた石器)された。
G 長岡京市立埋蔵文化財調査センター
旧石器から、近世に至るまでの市内出土遺物を展示している。 休所日は、
毎土曜日と第1、2日曜と祝日で入館は無料です。
H 奥海印寺城(城館跡)
細川氏の被官高橋氏の城館で、文献にたびたび登場する。海印寺には旧
小字「城」「荒堀」があり、高橋氏の城館のおよその位置が分かる。地名から
小泉川の左岸の段丘を天然の掘にしたようである。「城」周囲には、「西垣
外」「北垣外」「南垣外」などの地名が残る。
I 西山田遺跡
古来から日本では中国の道教や陰陽師の影響を受け、都の北東、南東、
南西の境界には大規模な祓所があり,長岡京でも発見されている。長岡第
四中学校近くの西山田遺跡からは土器製祭司具(土馬、ミニチャカマド、墨
書人面土器)木製祭司具など見つかっている。外界から穢れが都に入らな
いようにした祭司跡遺跡である。