お 隣 さ ん
     
                                                   
 
私達が高台二丁目に家を建てたのは、昭和四十七年春のことです。当時三丁目・四丁目はもち論、一丁目もまだ造成されていませんでした。
工事のためのダンプカーが地響きをたてて走り回り通り過ぎる中、私達夫婦二人だけの生活が始まりました。
当初電気工事は完成していたのですが、ガス工事が約束の工期より遅れていて、持っていたガス釜ではご飯が炊けず、業者に一升(!)炊きの電気釜とプロパンガスボンベをプレゼントされたこともありました。

周りに住宅は少なく一軒家みたいなものでしたので、夜は恐ろしくて枕元に金属バットを置いていました。
夏季はクーラーがなくても、さすが高台で、四方から風が通り快適でした。四中も西乙高もまだなく、大山崎への道もなく、バスは野々下医院の辺で乗客待ちをしていて、駅まで往復運行していました。バスも阪急バスではなくて「明星観光バス」のチャーターでした。そしてわが家の住所は「京都府乙訓郡長岡町大字金ヶ原小字池ノ内一ノ一九」。

高台の様相も生活の便宜さも、一変・二変・三変しました。この「ひとりごと」を書くにあたって、昔を振り返っていると、次から次へと思い出が、昨日のことのようによみがえってきます。それらの思い出の何と懐かしく、何と微笑ましく、何と心地よいことか………。
私達も随分年齢を重ねてしまいました。平成二十五年の新春を迎えた今、高台での生活を大いに楽しみ、この先も高台での心地よい思い出を貯めていきたいと思います。
 

2丁目                   菅    さん